ルートヴィヒ・ヒルバースアイマー 建築家、都市計画者

 

 

1885年、カールスルーエに生まれる。

 

1906年から1911年まで、カールスルーエで、特にフリートリヒ・オステンドルフのもとで建築学を修める。その後ベルリンに移り、建築家として活動。

 

1919年以来、積極的に文明批評を展開。ベルリンで「芸術新聞」や「社会主義月報」などの雑誌の文化記事を寄稿。

 

1922年、再び建築と都市計画に取り組む。ベルリンで住宅や商店を手がけ、また1927年シュトュットガルト(ヴァイセンホーフ団地)の「住宅」展に住宅を出品。同じくこのころ、「大都市の建築」、「造形者としてのコンクリート」を始めとする、近代建築と都市計画のための著作を発表。

 

1929年春から1933年4月まで、バウハウスに勤務。最初は建築理論の主任で構造設計の授業を受け持つ。後、住宅・都市建築の講義。

 

1933年、著作活動を制限され、ベルリンで建築家として活動。

 

1938年、イリノイ州シカゴに亡命。そこのイリノイ工学研究所で、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエのもとで、都市・地域設計の教授。

 

1955年以降、都市・地域計画学部部長。

 

1967年、シカゴで死去。

 

 

 ヒルバースアイマーは、早くから近代建築に関する重要な論文を発表していた。その都市計画は図式的だと批判されることが多いが、彼はどちらかと言えば理論家であった。彼は当時の実用的な理念を取り上げ、それを一般化して、都市計画の極めて概念的な一般原則を作り上げた。