ワルター・グロピウス

ワルター・グロピウス 建築家

 

 

1883年、ベルリンに生まれる。

 

1903年ミュンヘンで、1905年から1907年まではベルリンで、建築学を学ぶ。

 

1908年から1919年まで、ペーター・ベーレンスの事務所に勤務。その後ベルリンに自分の建築事務所を設立。以後、1925年までの大部分の設計に、共同経営者のアドルフ・マイヤーとともに携わる。

 

1911年から、アルフェルトのファグス工場を建築。

 

1919年、ベルリンで芸術研究会会長。芸術大学の学長としてワイマールに招待。

 

1919年4月1日の学長就任と同時に、学校名を「ワイマール国立バウハウス」とする。

 

1928年4月まで、バウハウスの学長を勤める。

 

1921年3月から1925年4月まで、指物部の形態マイスター。

 

1925/26年にデッサウへ移転後、新しいバウハウス館を設計。

 

1927年、エルヴィン・ピスカトールのための「全体劇場」を設計。

 

1926年からデッサウ・テルテン団地、1930年にはカールスルーエ・ダマーシュトック団地の建設。

 

1928年以降、ベルリンで建築家として、新建築とバウハウス関係の問題について講演活動。

 

1934年から1937年まで、ロンドンでマックスウェル・フライと共同事務所を経営。

 

1937年、アメリカ合衆国ハーバードのデザイン大学院に入る。

 

1938年以後同大学院建築学部長。同年、ニューヨークで「バウハウス1919〜1928」展覧会を組織し、またマサチューセッツ州リンカーンに自宅を建てる。

 

1938年から1941年までマルセル・ブロイヤーとともに建築事務所経営。

 

1946年、マサチューセッツ州ケンブリッジに「建築家共同体」を設立。

 

1964年から1965年、ダルムシュタットにバウハウス資料館を設計、これは1976年〜1979年にベルリンに場所を変えて建設。

 

1969年、ボストンにて死去。

 

 

グロピウスは、近代の大建築家のひとりに数えられる。ファグス工場とバウハウス館によって、彼は一時代を画する代表的な建築を作り上げたのである。グロピウスはそのカリスマ性と統率力によって、学長を辞任した後にもバウハウスに影響を与え続けた。また彼は、バウハウスが閉鎖した後も、バウハウス理念を広めるのに力を尽くした。